11月 232024
 

遺跡名41A01(綿貫古墳群)は、日本原子力研究所からその北側にかけての井野川右岸台地上に分布しています。4基の比較的大型の前方後円墳を主墳として5世紀中頃から6世紀後半まで築造されたと推定されています。【アクセス】JR倉賀野駅から徒歩・自転車3.2km、駐車場無し、見学自由 ★地図★
古墳名 墳形 規模 所在地 立地 出土品、備考 引用
不動山古墳(岩鼻村第15号古墳) 前方後円墳 全長94.00m、後円部径54.00m、後円部高さ10.10m、前方部前幅55.00m、前方部高さ (9.10m) 綿貫町金堀 台地 円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪、土師器、大刀、鉄鍬、舟形石棺 新編高崎市史、現地案内板

北西から。群中4基の前方後円墳の中で普賢寺裏古墳に次いで築造された。写真右側の前方部は昭和30年代に土取りで削られてしまった。平面形は太田天神山・伊勢崎お富士山古墳と相似形でその関係が注目される。5世紀中葉から後半の築造。

後円部上には不動尊。本古墳の南(原子力研究所敷地内)には岩鼻二子山古墳という全長120mの前方後円墳があったが昭和10年前後に消滅した。

社殿裏に舟形石棺の身が保存されている。凝灰岩製で両端に1個の縄掛突起がある。

(現地案内板より)高崎市指定史跡 不動山古墳古墳時代の5世紀後半に作られた前方後円墳です。 全体の墳形が良く残っており、まわりに濠もまわっていたことが分かります。西に前方部、東に後円部があり、北側のくびれ部には、方形の造り出しを作っています。 後円部の上に後の時代に不動尊をまつっていることから不動山古墳と呼ばれています。 後円部は作られた当時より大分削平されているようで、舟形石棺の身部が残っています。蓋は不明です。おそらく後円部に遺骸を納めた主体部があったのでしょう。 不動山古墳は、観音山、普賢寺裏、岩鼻二子山古墳とともに綿貫古墳群の一角を占め、この地域に大きな勢力をもっていた豪族がいたことを示しています。 昭和37年から39年にかけての調査で埴輪、鉄製鍬先、土師器が出土しています。全長94.00m 後円部径 54.00m 後円部墳頂径 18.00m 後円部高さ 10.10m 前方部前幅 55.00m 前方部高さ (9.10m) くびれ部幅 36.50m高崎市教育委員会 (現地案内板より)

(撮影 2004/01)

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