4月 282024
 

下谷古墳群は、境共同トレーニングセンター西方の早川右岸台地上に分布しています。【アクセス】★地図★

古墳名 墳形 規模 所在地 立地 出土品、備考 引用
鶴巻古墳(東村8号古墳) 前方後円墳 東西35.5m、南北32.5m、高さ5m 東小保方町 台地 円筒埴輪、刀寸や鉄鏃、轡、金銅製環、歯、骨片、横穴式石室 現地説明板、群馬県古墳総覧

北から。下谷古墳群の1基で復元整備され公園となっている。駐車場完備。

西から。2段築盛の帆立貝形の前方後円墳で左が前方部。

南向きに開口する横穴式石室。施錠されていて入れない。

内部は補強されている。(2024年再訪時は内部に篠が繁茂しよく見えなくなっていた。写真は2003年撮影)

玄室。角閃安山岩を削り出し互目状に積み上げたもの。

以下、現地説明板より

下谷地区のこのあたりには、古墳が35基以上あります。これらの古墳はいずれも古墳時代後期(今から約1400年前)に造られたものです。残念ながら今ではほとんどの古墳が消滅してしまい、姿をとどめるものはこの鶴巻古墳だけになってしまいました。しかし、雑草が生い茂り、墳丘も崩れかけていて自由に見学することは出来ませんでした。
そこで東村では、この貴重な古墳を往古の姿に戻し、後世の人々に永遠に遺してゆくため、3カ年計画でこの鶴巻古墳の整備を行いました。平成6年度には用地を購入し、平成7年度には古墳の本来の姿を知るために発掘調査を実施し、その結果をもとに史跡公園として設計を行い、平成8年度に復元整備の工事を実施したものです。
発掘調査の結果、これまで円墳といわれていたものが実は北西方向に小さな造り出しがある、帆立貝形の古墳であることが判明しました。東側は開田のため破壊されていましたが、南から西側にかけて古墳を区画するための周堀が見つかりました。古墳の規模は、周堀の内径で東西方向35.5m、南北方向32.5mありますので、周堀を含めた実際の姿はもっと大きいものになります。
墳丘は2段になっており、下から2段目に横穴式石室の入口があります。この入口の周囲には、約80cmの間隔で円筒形の埴輪がおかれていました。墳丘の高さは周堀の底面から5mと推定しましたが、周堀が地下1mの深さで保存されているため、現在の高さは4mになっています。
周堀は小砂利を敷いて平坦面とし、墳丘には芝を張り階段を設置しましたが、これらは便宜上設置したもので、古墳本来の姿ではありません。
平成9年3月 佐波郡東村教育委員会

この古墳の横穴式石室は、遺体を安置する部屋である玄室と通路である羨道とに分かれています。羨道は長さ2.25m、高さ1.2mあります。玄室は幅が広く、床も1段下がってあり、長さ3.15m、幅は2.15m、高さは2.05mあります。
石室の壁には、角閃安山岩という石が使われています。この石は、実は榛名山二ツ岳の軽石なのです。6世紀の中頃、榛名山二ツ岳は大噴火を起こしましたが、そのとき噴出した軽石は利根川(当時は今の広瀬川あたりを流れていたようです)に押し出して流れていきました。
この軽石を利根川からここまで運び、上下左右と正面の5面を削り、大きな石は下にして互目状に積み上げたもので、極めて美しい横穴式石室です。
天井石には、凝灰質の大きな砂岩が4個使われています。この石の産地は不明ですが、遠くからはるばる運んできたものと思われます。
発掘調査の結果、内部からは刀寸や鉄鏃などの武器、轡なのどの馬具、金銅製環などの装身具類のほかに歯や骨片なども出土しました。
この石室に葬られた人物は、古墳の規模や優れた築造技術からして相当に力がある、おそらくはこの地域を治めていた豪族のひとりだったのではないかと思われます。
平成9年3月 佐波郡東村教育委員会

(撮影 2003/10、2024/03)

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