7月 042024
 

巌穴山古墳は、金山丘陵北東麓の平坦地に築かれています。【アクセス】 ★地図★
古墳名  墳形 規模 所在地 立地 出土品・備考 引用
巌穴山古墳(毛里田村10号古墳) 方墳 31.2m×30.0m、高さ6m 今泉町 土師器、人骨、金環、刀装具、須恵器提瓶、横穴式石室、周掘確認 案内板、太田市史、群馬県古墳総覧

西から。群馬県内では数少ない終末期の方墳。近辺には須恵器・瓦・製鉄の窯跡があり、これらを統率した指導者の古墳で、7世紀中頃の築造と推定されている。

南側に開口する横穴式石室

全長13.4mと長大な複室構造の両袖型横穴式石室。チャートの自然石を使用。写真は前室で羨道と玄室の間に設けられている。市史によれば墳丘や石室の寸法が前橋の宝塔山古墳と類似点があり関連が伺える、とある。

(現地案内板より)

(現地案内板より)(現地案内板より)太田市指定史跡 巌穴山古墳 所在地 太田市大字東今泉大道西752 指定年月日 昭和50年9月22日一辺36.5m(現存墳丘部30m)、高さ6mの方墳である。墳丘四辺の方位がそれぞれ東西南北にほぼ一致している。発掘調査により幅7mの周堀が検出されている。葺き石・埴輪は確認されていない。 墳丘南側に横穴式石室が開口している。石室は複室構造をとる大型のものでチャートや凝灰岩の自然石を用いて築造されている。現存する石室の全長は13.4mである。 出土遺物には玄室内から土師器片・人骨片・金環・刀装具、羨道から須恵器提瓶等がある。 築造時期は古墳時代終末期の7世紀中頃と考えられている。終末期の古墳としては太田市唯一の方墳である。 かつてはこの古墳周辺に十数基の古墳があったが、現存するのは保存状態の悪い4基の円墳のみである。巌穴山古墳はこの古墳群の中心的存在であったと推定される。 古墳南西の金山丘陵には全国的にも有数の須恵器窯跡群があり、また南東の大道東・大道西遺跡や北東の楽前遺跡からは窯跡群と同時期の大集落が発見されている。被葬者はこれらを支配したこの地方の主導的立場にあった豪族と考えられている。 平成2年3月31日 太田市教育委員会

(撮影 2004/01)

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